結論は、有罪3ヶ月そして控訴。事件発生から、そこに至るまでのプロセスを丁寧に描いている。こころの揺れ動きなどの感動ものとは異なるが、社会派の作品として途中からは、時間の立つのも忘れ見入ってしまった。
真実は、明らかにされない、ただ判断されるのみであるという現実。そして、組織人である裁判官が裁くということ。ただ、見終わってやりきれなさ、ある種のカタルシス。、そして怒りが襲ってきた。自分を降り返って見たとき、組織に属している立場であるときにその組織人としての立場を優先し、真実を見る目、自己の新年を貫き、そしてその境遇をあまんじて受け入れることが出来ていなかったかということに恥ずかしくなった。
いま、現場で、この気持ちを忘れないうちに記述しておきたいという感覚。
このもやもやしているが、強く感じる「怒り」。これは、ただの社会正義というだけでなく、「誤り」が正されずにこの社会全体を覆っているかという嫌悪感。
正義感ぶっているわけではないが、許しがたい。ただ、その気持ちを踏みにじり利用しようとしている存在があることもまた、現実。
この現実の中、現実と現実として受け止めるリアリストが、世渡り上手として存在していると思うのだが、このような青臭いとも思える「正義感」が存在していなければならないと思う。
自分を降りかえると、その気概がないことに嫌悪感を感じてしまうのだが。
「信念」これが大事なのではと感じた。
「要求」には、「何故か?」の必然性を求める。そのことに納得できない場合は、断固拒否する。その納得性は、自分自身の納得性によって立つ。また、その納得性は、自分自身の意識の中で、「本当の意味で」合理的であると理解できるものでなければならない。
その納得性がない中で、不本意なままで合意するので、のちのちに不満という形で、過去への後悔の感情がでてくるのだろう。
その場、その場を真剣に検討して決断しているなら、後の事象がどのように変化しても後悔するこはなく。あるがままを受け入れることができるだと思う。
場あたり的な判断でなく、自分自身の「信念」に基づき生きてゆくことが、自分自身の納得できる人生の生き方であると思う。
このような生き方は、人間関係や社会との関係をうまくやるだけではなくぶつかることがおおくなるものである。それは、自分の信念とは異なる思想をもった他人は、自分の信念に対し同意するとは限らないからである。
その他人とのぶつかり合いの中で、合意点を見つけ出してゆくのが、交渉である。
もし、合意点がなくてもしょうがない、それは考えが異なっているだけなのだから。
そのためには、自分自身の「信念」を確立してゆくことが重要である。何故なら、信念があることによって、他者や社会とのぶつかり合いをまっとうな形で実現することができるからである。そのことによって社会的な立場が、変化したとしてもそれは、自分自身の信念に基づくものであるから、まったく持って恥じることではない。
