ブログを書くときに、自分のこころの問題を書くときにどうして隠蔽したいと
いう気分に覆われていた。
つまり、それは自分がはずかしいことをしているという意識の現れであったのだ。
いまもその恥ずかしさは払拭されていないが、自分が自分であるためにそのような
ことも含め書いてみたいと思う。
私は、心に問題を抱えている。
そのことが、非常に恥ずかしいと感じている。
しかし、そのような心を持っているということはそのような心を持っていない人に
くらべ持っているものが一つ多いのだ。
人が、哀しく思わないところでも哀しく感じるということは自分の心に豊かさが
あるというのだ。
現在、休職しているという現状は、休職せざるをえない環境に身をおいたことのな
いものに比べて、一つ大きい経験をしているということであり、その経験を体と心
で判っているといういことなのだ。
それが私自身であり、私自身であるのだ。
他人が私自身をどのように評価しようが、私自身は私自身でしかないのだ。
私は、他人にはなれないし、他人になる必要がないのだ。
何故なら、他人と同一になったら自分が自分である意味がなくなるから。
個性的であろうとしなくても、自分自身が自分自身の考えを持って生きることがで
きればそれが、個性的な生き方なのだ。
社会との関係性において、社会にあわせる必要はないのだ。
社会と自分との距離感を図りながら自分自身を大事にして生きてゆけばそれでよい
のだ。
どのような生き方をしても、それが自分自身の生き方に他ならないんだ。
つまり、他者をうらやんでも他者になろうとしてはならないのだ。
他者の意見を尊重することがあっても、それは自分の考えとは異なることを自覚し
てよいのだ。
自分自身の意見、考え方を言語/非言語で伝えようとする。それが、コミュニケー
ションの本質なのだ。そのコミュニケーションにおいては、自分とことなる他者が
存在する以上、理解されているということはないのだ。だから、理解してもらうた
めに
さまざまな技術やテクニックやロジックを使い理解してもらうようにするのだ。
それは、他者に対して理解してもらいたいという自分の意思がそれらを使わせるの
だ。
つまり、他者とコミュニケーションする時には必然的に何かを理解してもらいたい
という気持ちがあるのだ。その気持ちが意識的か無意識的かは別にして。
無意識的な場合は、何を理解してもらいたいかを意識の表層へ引き出してゆく必要
がある。
それは、不完全でもまったくよいのだ。それが、自分自身であるのだから。
今、ここでこのように考え、ブログのエントリーを書いているこの自分自身が私そ
のものなのだ。
ここでは、だれのためでもない。自分自身の意思として、エントリーを書いている
。
そう、誰のためでもなく、誰に頼まれたわけでもなく。
このような、自分自身を見なおし、自己の再発見のためのトレーニングのスペース
があれば現在のわたしのように心に問題を抱えた人にとって有効なのではないか。
